その瞬間は突然に
≪第2話≫
その女は、手下の男たちからの報告を聞いて嗜虐的な笑みを浮かべた。
ぬめるような舌先で、紅いルージュをひいた唇をなぞる。
その隙間から、耐え切れないというように洩れた声が薄暗い車内の空気を震わせた。
「ふふふ……。やっと見つけたわ。このあたしを陥れた男の弱点……ふ、ふふ、あははははは!!」
広い車内には、他にも何人かの男たちが控えていたが、女が狂ったように奇声を上げても眉ひとつ動かさなかった。
そして車は、都内から離れたある射撃場の裏手に静かに止まった。
+ + + + +
射撃場内では、パンパンと実に小気味良く銃声が続いている。
宗像が先に的の急所すべてに一発ずつ穴を空けると、続けて朝来が同じ軌跡を寸分の狂いもなくたどる。
同じようなことを順番を変え、的を変えて何度も繰り返すが、一向に決着がつかない。
どちらかが少しでも的を外すか、相手の作った穴以外の場所を打ち抜くかすれば負けが決定するのだが、如何せん両者の実力が桁違いのところで拮抗している。
勝負の行方こっそり見物しているギャラリーも唖然とするほどハイレベルな戦いだ。
そして、的が穴だらけ(しかし撃った弾数を考えると有り得ないくらい少なく、また異常なまでに正確な急所をついた穴しかない)になったところで、 宗像が一時休戦を提案した。
「飯でも食うか」
さすがに真剣勝負で神経をすり減らした感が否めない朝来は、少なくとも見た目はまったく変化のない宗像に悔しそうな顔を見せたが、 空腹には勝てない。昼食の誘いには素直に頷いた。
ご飯は外に食べに行くことになった。
設備の充実した射撃場には軽食が食べられるコーナーもあったが、昼食くらい火薬のにおいのないところで食べたいという朝来の希望に沿う形で落ち着いたのだ。
借りたものを返し、料金を払いに行った宗像を、朝来はベンチに座って待っていた。
空調が行き届いた建物内はぽかぽかと暖かく、窓から見える青空と相まって眠気を誘う。
どうやら知り合いらしい受付の女性と話をしている宗像を横目で見ながら、朝来はいつのまにかまどろみに身をゆだねていた。
+ + + + +
「なあ、朝やん」
……菫の声がする。
半覚醒状態のふわふわとした意識の中で、朝来の脳は先日の二人の会話を再現していた。
「何? 菫」
浅羽菫は関西極道門鐘組の娘だ。司の友人である浅羽椿の双子の姉である。
同門のよしみ、というわけではないが、朝来と菫はよく一緒に行動を共にしていた。
この日も、学校の食堂で昼食を摂りながら菫が軽い調子で訊ねてきた。
「朝やんて、その宗像とかいうポリスに何て呼ばれてんの?」
いまだに、「ポリス=嫌い」が合言葉だった朝来がそのポリスと付き合っていることに大きな疑問を抱く菫はよくいろいろな質問を投げかけてくる。
軽いものからかなり突っ込んだものまで、その程度はそのときの菫の気分により様々だが、 今回のこれは単に思い浮かんだことを口にした程度のものだったのだろう。
その証拠に、いつものように身を乗り出したり、興味津々のきらきらした目をしたりしていない。
が、訊かれた朝来は一瞬身体を強張らせた。
――呼び名。
朝来は宗像に名前で呼ばれたことなどなかった。
いつも、「おい」とか「お前」とかいう呼びかけばかりだ。
そういう朝来も、宗像のことを「あんた」としか呼ばないから人のことは言えないが、実はずっと前から気にしていたことだったのだ。
急に深刻な顔をし始めた朝来に気づいた菫は、地雷を踏んだことを悟って焦った。
「あ、朝やん!? そないに眉間に皺寄せてたらかわいい顔が台無しやで! ……あそうそう、そういや駅前にできたお店がな……」
菫の必死の話題転換により、その時は呼び名に関する質問は流された。
しかし一度意識の表層へと現れた感情は、どんどん明確な形を帯びはじめた。
一言で言えば、
『あいつに名前で呼んで欲しい』
ということだ。
だが、肝心なところで素直になれない強情な性格が邪魔をして、自分からそんな願いをあの男に告げることはできなかった。
そこに降って湧いたような、今日の勝負である。
『勝ってあいつに名前を呼ばせてやるわ』
俄かに実現可能性の高まった己の願いのために、朝来が勝負に真剣になったのも当然といえた。
ところがこれも、一朝一夕にはいかなかった。
なぜなら宗像が想像以上に銃を使えたからだ。
射撃の腕なら誰にも負けない自信があった朝来でさえ、その腕前には密かに舌を巻いたのだ。
(なかなか、うまくはいかないもんね……)
半分眠ったまま眉間に皺を寄せて、妙にリアルな感想に至ったその時。
まどろむ意識は強制的に覚醒させられた。
見知らぬ女と数人の男たちによって――。
そういえば、この二人って互いに名前を呼び合わないよなぁ…という疑問から始まったお話です。
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