ある日の異変




「――――!?」
 突然の眩暈に襲われ、朝来は一瞬ふらついた。
「っと、危ねえな」
 隣を歩いていた宗像が即座に朝来の腕を取って支える。
「どうした?」
「……ん、ちょっとつまづいただけ」
 多少の間はあったものの、朝来がいつもと変わらぬ調子答えたので、宗像は「気をつけろよ」と一言付け加えて掴んでいた腕を離した。


 思えばこの時にもっと問い詰めるべきだったと、宗像は珍しく後になって後悔したものだ。




「おい。疲れてるんなら風呂に入ってから寝たほうがいいぞ」
 デートを終え、宗像のマンションに帰ってきた朝来は、ソファでうとうととしていたところで声をかけられた。
 なんだか頭がぼーっとする。
 立とうとしても腰から下に力が入らない。
 返事もせず、動くこともしない朝来に、宗像が不思議そうに首をかしげた。
「おーい。起きてるかー?」
 半ばからかうような口調で朝来に近づいた彼は、次の瞬間驚愕に目を剥いた。


「おふろ……?」
 ソファに背を預けた朝来が、こてん、と首を傾げながら宗像を見つめて呟いた。
 その話し方が異常に舌足らずで、微かに潤んだ大きな瞳はあまりにも純粋だ。
 宗像を一瞬たじろがせるという偉業を成し遂げた朝来は、さらに攻撃を加速していく。


「おふろ、すき」
 にっこりと笑う。何の含みもない純粋な笑み。
 そして彼女は、さも当然といった風に次の言葉を口にした。


「かいも、いっしょにはいろ?」


 宗像は絶句した。
 彼にしてはあるまじきことに、口を開けたまましばらく固まってしまった。
 相変わらず口調はあやしいが、無邪気な微笑みでそれはうれしそうに宗像を混浴に誘う朝来。
 有り得ない。
 しかも「はいる?」ではなく「はいろ?」という聞き方に、相手の意見より自分の意見を通そうという意志が感じられる。
 ますますもって有り得ない。
 とろけるような笑みで小首を傾げる様はまことに可愛らしく、しかし幼いようでいてどこか艶めいた雰囲気をも醸しだしているとなればもはや犯罪だろうと思うがもちろん口には出さない。
 思わずふるいつきたくなるような言動といい、普段の朝来の口からは絶対に発せられないような魅力的なお誘いといい、宗像の理性はこれまでにない試練に立たされていた。


 が、しかし。
「……正気か?」
 宗像の口から出た言葉は魅惑的な甘誘への衝動とは別の実に冷静なものだった。
「調子悪いのか?」
 明らかにおかしい朝来に異変を感じた宗像が、そう言いながら朝来の傍へと寄ってきた。
 当然の成り行きとして、朝来の額へと手を伸ばす。
 熱の有無を判断しようとした宗像の手は、額に触れる直前でがしっと掴まれて引き摺り下ろされた。
 その拍子で、宗像は朝来の隣に座る形になる。
 見ると、先ほどとは打って変わって頬をぷっくりと膨らませた朝来が宗像を見据えていた。
「へんじは?」
「はぁ?」
「また、はぐらかしたぁ。……そんなにいっしょにおふろはいりたくないの?」
 上目遣いに睨んできたかと思うと、今度は拗ねたように、そしてどこか不安そうにこんなことを訊ねてくる。
 凶器染みた可愛らしさに軽く眩暈を覚えつつ、しかし宗像は冷静に考え確信した。
(これは異常だ。間違いない)


 一方、相変わらず自分の言葉に反応してくれない宗像に焦れた朝来は、「む〜」と唸って宗像の腕を羽交い絞めにした。
「おい」
「ん」
「ちょっと放せ」
「や」
「……」
 なんとなく、今の状態でもいいか、などという誘惑が宗像の内心で鎌首をもたげてくる。


 宗像はそんな誘惑を振り切るように息を吐いて、擦り寄ってきた朝来の額に手を置いた。
「――お前!! やっぱり熱あるじゃねえか」
 予想通りといえば予想通りだが、さすがに悠長に楽しんでいられる状況でもない。
 嫌がる朝来を無理矢理抱き上げて、即座にベッドに放り込む。
 体温計を探し出し、耳に当てて熱を測った。
「――八度三分。立派な高熱じゃねえか……」
 ベッドに寝かされた朝来は、熱によるハイな状態を脱し、今は苦しそうに息をしている。
「どうしてこいつは体調悪いって早めに言わないかね……」
 思わず愚痴めいた言葉が口をつく。


 デート中に倒れかけたのは立ちくらみのせいだろう。
 つまづいたなどというありきたりな嘘を見抜けなかったことが悔やまれる。
 良く考えれば、いつもの朝来の覇気が今日はあまり見られなかったような気もする。
(気づけなかった俺も俺か)
 朝来が強情なことも、たまのデートを実は心待ちにしていることも知っている宗像は、朝来に無理をさせた原因は自分だと素直に認めて反省した。
 宗像は職務上常備している救急用セットにあった解熱剤を朝来に投与し、ぐったりとした朝来の服を脱がせて汗を拭い、新しい服を着せてやった。
 しばらくしてやっと楽になってきたらしい朝来の様子に安堵した宗像は、ベッドの傍に膝をついて寝ている朝来の額に張りつく髪をよけ、独りごちた。
「色々と心臓に悪い風邪だ」
 まったくもってその通りだった。


 そしてふと考え込む。
(しかし、なんでまたあんな異常な言動をとったんだ……?)
 熱があったにしても、明らかにおかしい。
 幼児化しているのかと思ったら、艶のある視線で混浴に誘う。
 無邪気なようで、やっていることは実に色めいている。


 思いをめぐらすうち、視線を彷徨わせていた宗像はベッドの傍らに無造作に置かれたガラスコップに目を止めた。
――ひらめくものがあった。
 同時に思わず沈黙する。
「……俺のせいか……」
 疲れたように呟く宗像は、本日の夕食を思い出していた。
 そういえば、久しぶりに食べに行った寿司屋においしい日本酒があったからふざけて朝来にも飲ませてしまった。
 朝来は以前口移しでウイスキーを飲ませたときもほんの少量で酔っていた気がする。
 あの時も正気とは言いがたい言動をとっていたが、なるほど、今日はこれに体調不良が輪をかけて朝来をおかしくしてしまったらしい。
(どうも、酒は鬼門だな)
 ある意味「おいしい状況」を作るには非常にもってこいの手段ではあるが。


 不埒なこともしっかり考えながら、宗像は、高熱による発汗で暑そうに身をよじる朝来の顔を冷たいタオルで拭いてやった。
 そしてにやりと笑い、囁くように声を落とした。
「今日くらい素直なお前もかわいいが、やっぱり、嫌がるお前のほうが俺としては楽しいな」
 落とし甲斐があるってもんだ、とは心の声。
 宗像の呟きを聞きとがめたとは思えないが、朝来は一瞬眉間に皺を寄せた。
 宗像の頬が緩む。


「ま、元気になったらぜひとも風呂にご一緒させてもらうとするか」


 楽しげな言葉は幸い朝来の耳には残らなかった。
 翌朝、自らの熱を下げた汗を洗い流そうと浴室に向かった朝来が、先にシャワーを浴びていた宗像に嬉々として中に引きずり込まれて悲鳴を上げることとなるのだが、それはまた別の話。




たまたま自分が風邪を引いたので思いついた小話。
テーマは宗像を困らせてみよう!……だったんですが、喜んでますね……


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