寝ても覚めても
≪前編≫
簡潔すぎる三行の文字列。
メールが来た時点で何となく予感はしていたが、やはりだ。
GRAVE所属の彼は様々な凶悪犯罪を取り扱うため、こうして突然予定が変わることが頻繁にあった。
慣れていることとはいえ、久しぶりのデートの約束がなくなれば溜息の一つもつきたくなる。
朝来は一つ息を吐いて、未練を断ち切るようにぱちんと勢い良く携帯を閉じた。
朝来はノートや資料を手早くバッグにしまいこんで大講義室をあとにした。
建物の外は少し太陽も傾いて日中よりは幾分暑さも和らいでいる。
今日はサンダルだからと慎重に階段を降りていた朝来は、しかし降り切った所にあった溝にピンヒールの先を取られて思わず前のめりに体勢を崩した。
「きゃあ!」
まったく同じタイミングで自分の隣から軽い悲鳴が上がったので、朝来は自分が声を上げるタイミングを逸して何気なくそちらに顔を向けた。
「やだ、もう。なんでこんなとこに溝があるのよ」
「何してるんだよ。大丈夫か?」
見たところ、可愛らしくむくれる彼女と、呆れながらも心配する彼氏といったところか。
仲睦まじいその二人は、朝来の視線には気づくことなく楽しそうに喋りながら朝来の隣を通り過ぎた。
「――……」
何となく、肩が落ちるのがわかった。
あれは大学の構内ではよくある光景だ。
良く見れば、楽しそうに他愛もない会話をしながら歩いたり、ベンチに座って休憩する男女は多数いる。
それに対し、文句を言う気も愚痴を言う気もさらさらない。
ただ、タイミングの問題だっただけだ。
結構前から楽しみにしていたデートが流れて、少々気分がささくれていた。
そこに、普段なら目にも留めないほどの小さな溝に足を取られた上、無自覚なカップルのいかにもな雰囲気にあてられた。
少し惨めな気持ちと、思い通りにいかない現状への不満が募る。
朝来は可愛らしい顔と細身の身体には似つかわしくない舌打ちを微かに洩らし、荒々しい仕草でヒールを溝から引き抜いた。
朝来が気分を落ち着かせるために菫に連絡しようと携帯を取り出した時、背後から聞き覚えのある声がした。
「守門さん?」
呼ばれて振り向くと、覚えのある顔がそこにあった。
「やっぱ守門さんか。なんか遠くで溝に足を取られてる子がいたから大丈夫かなと思ってたんだけど、近づいてみると知ってる人っぽいからさ。 あ、俺のことわかる? 語学の授業で一緒の……」
「上原君……でしょ」
突然聞きなれない声で呼ばれたため一瞬反応できなかったが、確か彼は最初の第二外国語の授業でネイティブの講師を唸らせるほどの流暢なフランス語 を披露して一気に知名度を上げた男だ。
名は上原寛人。端整だが少し幼さの残る顔立ちに、気さくな性格で女子学生に人気が高いと聞いたことがある。
ただ朝来本人は上原に対して興味を持っていなかったし、過去に席が隣になったときに二、三度話した事がある程度の人だったから、 こんな風にいきなり親しげに話しかけられている状況に若干とまどった。
しかも、ひとりでこけそうになったところまでばっちり見られていたとなると、赤面ものだ。
朝来は微妙に居たたまれない気持ちでいたが、上原はそんなことは気にした様子もない。
持ち前の人懐っこい笑顔は絶やさない。今の朝来にはちょっと眩しすぎるくらいだ。
「お、名前覚えてくれてんだ。――ところでさ……っと、ちょっと待ってね」
朝来に何か話そうとした瞬間にタイミング悪く携帯が鳴ったらしい。
別にそれはいいのだが、ただでさえ話題に困る相手に目の前で通話を始められると、残された方としては非常に手持ち無沙汰だ。
朝来がそんなことを考えている間に、上原は通話を終えたらしい。
携帯をしまうと、探るような目線を送ってきた。
「あー…、突然なんだけど、守門さん今日これから予定とか、ある?」
「……ないわ」
無意識の内に声のトーンが落ちたことは、上原には気づかれなかったらしい。
「あ、じゃあさ、今日飲み会あるんだけど、守門さんも来ない?」
「飲み会?」
「うん。さっきの電話さ、俺の友達なんだけどそいつらがこれから飲むらしいから、せっかくだから守門さんもどうかな、と」
「でも……」
「あ、メンバーならきっと顔くらいは知ってると思うよ。語学で一緒のやつも結構いるし、もちろんちゃんと女の子もいます」
男ばかりではないから大丈夫、と慣れた調子で付け足した。
なんだか、爽やかな笑顔に似合わず、結構強引な男だ、と朝来は頭の隅で考える。
メンバーを考えると微妙なところだが、確かにちょっと今日は飲みたい気分ではある。
頭の隅にちらりと宗像の顔が浮かんだが、仕事とはいえ約束を反故にしたのはあちらだ。
それならこちらはこちらで楽しむまでだ、と半ば無理矢理理屈をつけて朝来は誘いに乗ることにした。
女子大生の朝来さんw ……宗像氏の年齢は聞かないであげてください(笑)
▼中編へ