バカップルな二人のお題
3. 痛い所はキスで消毒
(び……びびびっくりした…………)
逃げるように宗像の傍を離れた朝来は、脱兎のごとき勢いで洗面所へと駆け込み、その背をドアに預けて座り込んでいた。
心臓がうるさい。
顔が火照り、全身が熱い。
突然の衝撃に我を忘れたのもほんの一瞬のこと。
ついで訪れた眩暈にも似たあの陶酔を、なんと表現したらよいのだろう。
「〜〜〜〜〜〜っ!!」
ほんの数秒前のことを鮮明に思い出し、朝来はひとり、声にならない叫びをあげた。
右手が無意識に唇へと伸ばされる。
――あんなキスは知らない。
全身で自分を求めているのがわかるほど荒々しくも情熱的で。
それでいてこちらの反応を知り尽くしたように計算された舌の動きは……
と、そこまで考えてまた赤面する。
なんとも不毛かつ非生産的な己の行動に、朝来は小さく深く息を吐いた。
(あんなの、反則だわ。このあと、どんな顔して出て行けばのかしら……)
たかがキスひとつでこのざまだ。
むしろあの男がこのくらいで済ましてくれたことに感謝すべきなのかもしれない。
「…………」
ここでふと、朝来はひとつの疑念にとらわれた。
あの獣のような男が、獲物を前にしてキスだけで我慢するなんてありえるだろうか。
もしかして、断じて認めたくはないが、自分に女としての魅力が足りないと思われたのだろうか。
思わず、己の胸に視線を落とす。
下を向いてもまったく視界の妨げにならない程度のふくらみを睨みつける。
確かにあの男の好みの体型とはお世辞にも言いがたいけれど……。
全身全霊で求められるようなキスをされたところだというのに、すぐにこういう思考に至るのは、朝来がまだ宗像自身から自分に対する感情を言葉にしてもらっていないからかもしれなかった。
求められるのは嬉しい。
でも言葉にしてもらえないのは不安。
だからといってそれを本人に言うのは負けたみたいで悔しい。
結局、自分を落ち着かせる意味で深呼吸した朝来は、考えることをいったん放棄することにした。
(やめた。どうして私があいつのことでこんなに悩まなきゃならないの)
ふっきれた、というよりはどこか挑戦的な顔つきである。
朝来は勢いよく立ち上がってドアノブに手をかけた。
* * * * *
朝来が真剣に悩んでいるのとは対照的に、(それも至極当然ではあるが)宗像は至って呑気にソファに寝転がっていた。
両腕を頭の後ろにくんで天井を見つめる。
なかなか戻ってこない朝来が気がかりでないといえば嘘であるが、本人としては、「ちょっと刺激的すぎたかな?」というくらいにしか思っていないので大して気にかける風でもない。
――それにしても。
宗像は先ほどの朝来の表情を思い浮かべる。
(あいつもなかなか色っぽい顔ができるじゃねえか)
いつも眉間に皺を寄せるか、沸騰したように真っ赤になるかのどちらかだが、拙くも精一杯自分に応えていた先ほどの朝来には珍しく艶があった。
朝来が嫌がらなければ、そのまま行為を続けていたかもしれないくらいに。
女ってのは、男が驚くほど急に成長するらしい。
まだまだガキだと思っていたあの娘が、キスひとつであんな誘うような眼をするのだ。
(それが俺のせいだというのがまた、たまらないな)
くつくつと笑いを洩らし、宗像は洗面所のドアへと目をやった。
――さて、どんな顔をして出てくるのやら。
朝来の反応を完全に面白がっているが、その目に狙った獲物は逃さないという光が宿っていることに朝来はまだ気づかない。
* * * * *
バタン、と盛大な音を立ててドアを開けた朝来は、リビングでくつろぐ無駄に大きな男に目をやった。
そのまま無言でつかつかと歩み寄る。
もっと狼狽しているかと思っていた宗像は少し目を見張った。
なぜか睨まれているようだったが、宗像は何を思ったか目元に笑みまで浮かべて次の行動を待った。
明らかに余裕の態度を示す宗像に、朝来は眉をぴくりと動かしたが口を開くようすはない。
朝来は宗像が寝そべるソファの前にかがみこむようにして座った。 そのままソファに右ひじをついてじっと宗像の顔を凝視する。
さすがに居心地が悪くなってきた宗像が身じろぎするより先に、朝来の左手が宗像の右のこめかみにある傷痕に触れた。
「……なんだ?」
朝来の意図がいまいち飲み込めず、宗像は反射的に問う。
「傷……」
「……?」
やはりよくわからない。目線だけで次の言葉を促した。
「この傷、身体中にあるわよね」
「ん、ああ。まあ、こういう仕事してるからな。なんだ、気になるのか?」
その問いに、朝来は少し首を傾げた。
「気になる……のかしら。うちも身内が身内だから、生傷の絶えない男っていうのは見慣れてるんだけど」
そこで一度言葉を切る。
「まだ痛んだりするの?」
突然の問いかけだったが、宗像は少し肩をすくめて答えた。
「だいぶ前のものだ。まあ、たまにひきつることはあるがそれだけだな」
会話の間も、朝来の左手は宗像の傷痕に触れたままだ。
朝来の低い体温が左指を通して伝わってくる。
表情《かお》には一切出さないが、宗像は少し驚いていた。
(俺は、触られるより触るほうが断然好きなんだが……)
どうも、朝来に触れられるのは嫌いじゃないらしい。
もちろん、今でも目の前の朝来を抱きしめたいという欲求はあるのだが。
それとは別に、もっと直に朝来の体温を感じていたいと思うのはどういうことか。
俺も大概こいつにまいっているらしい、と、本人には絶対に言ってやらないことを考えていると、朝来が再び口を開いた。
「あんた、意外と体温高いのね」
「おまえの手が冷たいってのもあるだろうがな」
「そうかもね」
くすっと笑うその様子は、先ほどまで言葉ひとつ、キスひとつで赤面しまくっていた少女と同じものとは思えない。
笑顔の朝来もかわいいには違いないが、その余裕ぶりは宗像としてはいまひとつ物足りない。
ここらでからかいの言葉でもかけてやろうと思ったその時――。
「…………」
一瞬の沈黙の後。
「……どうしたんだ?」
なんとかそれだけ口にした。
突然、こめかみの傷痕に唇を寄せてきた朝来に、さすがの宗像も一瞬絶句したらしい。
そんな宗像の様子に、少しだけ溜飲が下がった朝来は、ふっと笑って答えた。
「別に? なんとなくしてみたくなっただけ」
それから、なぜか機嫌の良くなった朝来は鼻歌交じりに立ち上がり、「ご飯でも作ろうか?」などと言いながら、キッチンへと駆けて行った。
珍しく朝来にしてやられた宗像はといえば、片眉を上げて小さく鼻を鳴らした。
(あいつからキスしてくれるのはいいが、それならもっと気の利いたやつをしてくれないもんかねぇ)
朝来が聞いたら間違いなく怒りだしそうな感想を抱くが、これは言わないで置く。
何と言っても、向こうから自発的に行動を起こす気になってくれているのだ。
ここは静観するのが正しい判断だ。
運よく、本当に些細にではあるが天敵に一矢報いて命拾いしたガゼルと、そんなガゼルを虎視眈々と狙い続ける雄獅子《ライオン》。
マンションという名のサバンナで、両者の戦いはまだ始まったばかりだった。
朝来さんの逆襲…か?
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